ver.ミニカー(ferrari)
2001年のヴァカンスでマラネッロにある、ferrariの本社を見に行ってから、すっかりフェラーリ熱に侵された僕達。 こつこつと、ネットオークションや現地、日本のF1ショップを探しまわり、少しづつだけど揃い始めたミニカーのコレクションです。 オルゴール同様、これもちゃんとコンセプトに基づいて集めることにしてるんだっ。 だって、もともと真っ赤なフェラーリは僕達大好きだったから、それにコレクション熱なぁんて加わっちゃったら、どれだけ買ってもキリないもんね。(笑) だから、何を買い集めるのかをちゃぁんとNINOにも言い聞かせとかないと、NINOったら「Ferrari」ってだけで何台のミニカーを買ってくるか分からないから.... (我が弟ながら恐ろしい) コンセプトは、[ferrariフェラーリ]がF1(Formura1)で「コンストラクターズチャンピオン」、「ドライバーズチャンピオン」を両方獲得した年のモデルであること!! ただし、1952年から1953年はF2規格で行われたので、F1レースには数えられないかも知れないが(^^ ?) また、「コンストラクターズチャンピオン」設定前は「ドライバーズチャンピオン」のみしか表彰ない時代だから、その時代に関しては上記のコンセプトの限りではないのであしからず。(笑) |
1952年
フェラーリ500 アルベルト・アスカーリ (QUALZO製) 52年、53年はF1規格では参戦台数が確保できないということで、F2(2000cc)マシンで競われた。その為、F2規格でF1に参戦できるとあって、参入メーカーは一気に増え、F1人気も同時に上がって行った。 無敵のアルガロメオが撤退したこの年、フェラーリは別格の強さを誇り、7戦全て優勝、ファステストラップ、ポール・ポジションを取り、最終戦以外は最低でも1、2フィニッシュでGPを周っていた。最終結果は、1位〜4位まで全てフェラーリで占めた。 アスカーリは、1918年北イタリアでアルファロメオの名ドライバーを父に持ち、誕生。7歳の時にその父がレース中36歳の若さで他界。1955年に本人も同じ36歳でイタリア・モンツァにおいてフェラーリに乗車中、クラッシュで他界した。 |
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1953年
フェラーリ500 アルベルト・アスカーリ (VITESSE社 La
Storiaシリーズ) 前年同様F2規格で行われたこの年も、フェラーリの独壇場で8戦7勝という強さだった。 アスカーリは前年から引き続いて9連勝を挙げ(まるまる1年勝ちつづけたということ)、2年連続優勝ワールドチャンピオンとなったのです。 しかし、前年のように1位以下フェラーリという結果は得られなかった。イタリアGP最終コーナーでアスカーリがスピンし、マリモン(マセラッティ)が追突。この2台のクラッシュを避けたファリーナ(フェラーリ)がコースアウト。結局このトラブルをかわしたJ・M・ファンジオ(マセラッティ)が1年3ヶ月ぶりの優勝を遂げ、最終結果フェラーリ勢の中で2位に食い込んだのだ。 |
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1961年
フェラーリ・ディーノ156 フィル・ヒル(VITESSE社 La Storiaシリーズ) この年からFIAはレギュレーション規定を2500 ccから1500ccに改定した。これに対し、即座に対応したフェラーリは185馬力の有望なマシンを投入してきた。 初めてフェラーリがコンストラクターズチャンピオンに輝いた名誉在る年でもあるが、F1史上最悪のレースとも言われている。(以下参照) タイトル争いは、フェラーリの二人、フィル・ヒルとヴォルフガング・フォン・トリップス伯爵。 第7戦イタリアGPが決戦の場となった。しかし、結果は予想もしない悲劇となった。 今季初のポール・ポジションを獲得していたトリップスがスタートで出遅れ、クラークと接触し、観客席へと突っ込み、14名の観客の命と共にトリップス伯爵は死亡した。 表彰台でアクシデントの結果を知ったフィル・ヒルは涙し、観客も共にこの悲劇を悲しんだ。 ちなみに、この後のアメリカGPをフェラーリは欠場した。 |
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1964年
フェラーリ156 ロレンツォ・バンディーニ (BRUMM製) コンセプトからはずれてしまってる商品(^^A) |
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1975年
フェラーリ312T ニキ・ラウダ (MINICHAMPS製) |
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1977年
フェラーリ312T2 ニキ・ラウダ (VITESSE社 La Storiaシリーズ) ニキ・ラウダがフェラーリで最期に取った優勝。 彼はこの翌年からブラバムに移籍する。 移籍の原因は、この前年の1976年ニュルブルクリンクで起こったアクシデントについて、フェラーリ側が事故の原因をきちんと調査しなかった為と言われている。 事故は、ラウダの乗ったフェラーリが突然コントロール不能となり、カーブを曲がりきれずフェンスを破って岩に激突、跳ね返ったマシンに後続車がクラッシュ、ラウダのマシンが炎上するという悲惨な出来事だった。800度の炎に包まれ、火傷は肺にまで達すると言う状態で病院に運び込まれた彼は、家族と神父まで呼ばれ、医師から死を宣告された。 しかし、驚異的な速さで彼は回復し、血をにじませ、顔にはケロイドを残しながら、6週間後のイタリアGPでは4位という結果を残した。彼はチャンピオンを諦めなかったのだ。(しかし、最終戦の日本GPが豪雨に見まわれ、彼は危険と判断し棄権。チャンピオンを譲った) |
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1979年
フェラーリ312T4 ジョディ・シェクター
(MINICHAMPS製) イタリアGPの時点では、フェラーリの二人とも(シェクターとビルヌーヴ)タイトルを狙えたが、ビルヌーヴはチームオーダーに忠実に従い、確実にシェクターを援護した。 これによって、シェクターは初めてワールドチャンピオンに輝くことが出来た。 翌年もフェラーリで走るが、チャンピオンならず引退。ビジネスマンに転身した。 この年を機にしばらくフェラーリは表彰台のトップに登ることがなくなる。 シューマッハが現れるまでは「フェラーリ最期の王者」として名を残していた。 |
2000年 フェラーリF1-2000 ミハエル・シューマッハ (BBR製?) 21年ぶりに表彰台トップに上ったフェラーリ。スタッフの喜びが良く表現されているこの一品をマラネッロのF1ショップで見つけ、思わずお買い上げ〜♪ |
大好きなLa Storiaシリーズからデザインがリニューアルチェンジされて出た、シューのフェラーリ!! ヘルメットがバリチェロになってるあたりも、笑って許せるくらい、嬉しかった一品です!! 本当は、上記全モデル、La Storiaで揃えたいのだが、既に廃盤ばかりで、困っているというのが実情。。。(涙)マラネッロの各ショップ店主さん達も、オークションとか露天探してみなっ。とか言い放ってくれちゃうし。。。。 |
2001年 フェラーリ連続優勝!! いやぁ、シューマッハさん、ありがとう。って感じ? |
F1Car以外のコレクション*
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1992年[エズの町](モナコ)の雑貨屋で見つけたアートガレージモデル。
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2001年夏購入 1971年のストリートモデルをマラネッロ(イタリア)のF1ショップにて見つけたので購入。BBR製 |
(Matel製)1/43スケールのF50スパイダー。 現代物としては、「芸術!!」とまで絶賛したいこの美しいフォルム!! F1モデル以外で何とも気の惹かれる車種です。 |
1999年 イタリア行き飛行機でご一緒したF1チーム、ミナルディのスタッフ達の陽気さに惹かれてフェラーリの次にファンになってしまいました。プログラムはその時、スタッフの人に頂いたものです。ミニカーは、その機内で会ったドライバーの記念に、1999年ルカ・バドウェエル(モデルにはイタリアン・ドライバーとだけ記載されてますが...)のモデルを購入。 | 発売後かなり早くに完売してしまったらしい、フェラーリベア。 手を握るたびに、アクセルを踏んだり、ギアが一速づつ上がっていきます。 そのエンジン音たるや。。。 かなり面白い、よくできた大人用のぬいぐるみですよ♪ あまりの可愛さに、数回友人たちに拉致されそうになりました(汗) |
2002年の誕生日にプレゼントされた、アートガレージのロングモデル♪ |
(Burago製)1/18スケールのF50スパイダー。 フェラーリ社の50周年記念にフェラーリがブラーゴ社に注文した由緒正しいフェラーリのオフィシャルモデルだそうで、引出物として出されたという噂もある、絶版商品! 1/43では楽しめない、ドア・エンジンフードが開閉。フェラーリV12ユニットが細かく再現されているのが覗けます。 感動はタイヤとハンドルが連動で動くんです!! |
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